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2011年8月21日 (日)

昭和16年夏の敗戦

昭和16年夏の敗戦 (中公文庫)


リーダーシップなきリーダー達の姿。

今年の年初にNHKスペシャルでやっていた、『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』とも通ずるものがあるが、日本という大きな組織がどのような経緯で戦争に突入したか?を考えると、そこにある一つの答えは、リーダーシップの問題に突き当たる。

これは、国レベルだけではなく、企業、個人、どのレベル(レイヤー)でも同じ構造。

なぜリーダーシップが欠如しているのか?
リーダーシップには色々なスタイルがあるので、国民性とか文化的な資質により、上からの強烈なリーダーシップスタイルが受け入れられないのはよくわかる。

でもリーダーシップのスタイルは他にも色々とある筈で、ある組織体をある方向に導きたいと思うなら、何らかのリーダーシップは発揮される筈。

それが何もないのはなぜか?

この本を読んでいる時にフト思った。

もしかしたら、日本人は物事をトコトン突き詰めて考えることを避けるのではないか?

自分のこと、仕事のこと、地域のこと、国のこと、、、対象はなんであれ、その本質や本来の目的を徹底的に考え抜くことをしないから、自分の言動にコミットすることもなく、結果的に何のリーダーシップも生まれないのではないか?

話は横道にそれるが、例えば欧米では、カウンセラーやセラピストにかかる人が多いと聞く。
それは、何か(特に自分のこと)を突き詰めて考える過程において、悩み苦しみ、第三者の協力を得る必要が出てくるのではないか?(なんか例えが悪いが)

対して日本人は、突き詰めて考えることがなく、日々流されているような傾向が強いのではないか?
(当然、その中には私も入るが)


戦争においても同じ。

戦う必要があるのか?本当に勝てるのか?物資は足りるのか?最悪のシナリオはどうか?といった事実に加えて、自分はどう考えるのか?自分はどうしたいのか?がない。

何も考え抜くことがないから、場の「空気」で戦争が始まり、当然のこととしてそれはうまく行かない。
最近の原発問題でも同じ。


で、私はどうしたいのか?


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